「体罰」肯定論は誤り

「体罰」を肯定する人もよく見られます。しかし結論から先に言えば、「体罰」肯定論は結局のところ、「不当な暴力を正当化して、加害者が正義面する」という、暴力行為への正当化に過ぎません。

「体罰」肯定派の態度は、暴力正当化の論理を勝手につくり、その上であぐらをかいて思考停止している――すなわち、子どものことなど全く考えずに、ただ「子どもに暴力を加えることをどう自己正当化するか」ということしか考えていない、きわめて傲慢で自己中心的な態度であると、厳しく指摘すべきものです。

「体罰」には教育効果は全くなく、逆に子どもの心身を深く傷つけるだけで、子どもの発達にきわめて有害だということは、無数の例で証明されています。

「体罰」肯定論のどこが問題なのかを、「体罰」肯定論の論点に即して考えていきたいと思います。

「体罰」は適切なものと不適切なものがある/「体罰」と暴力は違う、という主張について

子どもの成長を願って加えられる外形的な実力行使が「適切な『体罰』・愛のムチ」で、それ以外のものを暴力や「不適切な『体罰』」として区別するという形の「体罰」肯定論があります。

しかし「体罰」と暴力とを、もしくは「適切な『体罰』と不適切な『体罰』」を、どうやって区別するのでしょうか。「体罰」被害者や第三者にわかるような、明確な基準などはありません。

「体罰」と暴力とを区別する基準は結局、加害者の主観しかありません。ということは、たとえ感情的な暴力でも、後からとってつけたように「子どもの成長を願っておこなった、正当な指導」かのようにいいわけが可能です。

実際、「体罰」で心身に重大なけがを負わせるなどして問題となっても、加害者は「正当な指導」かのように主張し、「問題視する方が悪い。教師や指導者への人権侵害だ」などと居直る場合も多々あります。

また事件は事実であると実質的に認めながらも、「自分の行為を問題視するのが許せない」という独自の意味で「でっちあげ」「冤罪」などと騒ぎ立てる加害者もいます。

「愛情があるなら『体罰』を加えてもいい」という論もありますが、愛情の有無で「体罰」が適切か不適切かを区別することは、無意味なことです。加害者側がいくら「愛情」と強弁しても、被害者側は心身に傷つき、これ以上の被害が及ばないように加害者の機嫌をとる「演技」をしていただけにすぎないという事例も多数あります。

「体罰」は適切なものと不適切なものがある・「体罰」と暴力は違うという論は結局、加害者の行為を自己正当化するための論理にほかなりません。

悪いことをしたのならたたかれても仕方ない、言ってもわからないから「体罰」を加える、という主張について

 それならば、「体罰」を肯定し、学校現場などで「体罰」を常用する者は、「『体罰』で心身に深い傷を負う児童・生徒がいるという事実や、『体罰』は禁止されていることなど、『体罰』の害や違法性を何度も指摘されているにもかかわらず、【言ってもわからない】自分たちは【悪いことをしている】のだから、生徒・保護者・一般市民から制裁を加えられても、それは正当な行為だから制裁を甘んじて受ける」という覚悟はできているのでしょうか???「そういった『体罰』教師やその同調者は、生徒・保護者・一般市民から『体罰』を受けて反省していただきたい」といわれても文句は言えません。

もちろん、上記の文章は一種のブラックジョークです。「体罰」肯定派の論理を突き詰めていくと、上記のような「逆説的なブラックジョーク」ともいうべき論理的帰結にたどり着きます。

ですが、「体罰」肯定派でこのように“筋を通す”人間には、残念ながら出会ったことがありません。

「体罰」の際に生徒が「体罰」に少しでも抵抗すると「一方的な対教師暴力」と勝手にすり替える、「体罰」に対する生徒や保護者の正当な抗議に対してはまるで「わけのわからない異常者に絡まれ、教師がモンスターペアレントの被害に遭っている」「教師への人権侵害」かのように事実をゆがめて振る舞う…などと、「体罰」教師が不利になると自己を正当化して騒ぎ立てたり相手を陥れようとしたりして、被害者に二次被害を与えるという事例は、よく聞きます。

言ってもわからないから「体罰」を加えるという論理には、「言ってもわからない」人間をどう判別するのか・判別の基準は「判別する側の人間の主観」だけに過ぎないのではないか、という根本的な問題も残ります。

「体罰」肯定派の論理は、自分を「法律や社会道徳を超越した絶対的な存在」「絶対的な正義」「相手より格が上の人間」などと勝手に定義して、自分は安全なところにいながら相手の立場や人権を低く扱うという考え方だといえます、これは他者への人権軽視、ないしは差別や蔑視といった考え方がと言い換えてもよいでしょう。こんな考え方は非論理的で独善的な考え方であり、現代社会では通用しない考え方です。

また、日本では私刑が禁止されているという事実も重要です。「悪いことをしたのだから仕方がない」「言ってもわからないから」という論理で加えられる「体罰」は、私刑にほかなりません。

「体罰」は教育的に有害

「体罰」肯定派の論理として、「体罰」を受けて感謝した・目が覚めたという内容のことをあげ、「体罰」に教育的効果があるという主張に結びつけるという論理展開がよく持ち出されます。

しかし、その主張の根拠は個人の願望・思いこみだけに過ぎません。「体罰」に教育的効果があるという主張を裏付けるような、客観的・科学的な調査・研究結果を示した人はいません。

「体罰」と子どもとの関係についてのある調査によると、「体罰」を受けた小中学生の7割以上が反発的な感情を抱いています。また「体罰」を受ける頻度が多いほど、教師や学校への反発の度合いが強まったり、クラスメートへのいじめ行為に結びつきやすくなったりするという傾向が出ています。(参考文献:秦政春『生徒指導』2003年・放送大学教育振興会)

また、全国児童相談所長会の調査によると、児童相談所で非行相談を受け付けた子どものうちの約3割が、虐待を受けていたという結果が出ています。児童虐待事件で逮捕される親の言い分として「しつけのためにやった」という趣旨が多いように、虐待のうちの相当数が「体罰」にも該当する行為です。(参考文献:『読売新聞』2005年6月21日付)

2008年には熊本大学などの研究グループが、「子どもの頃に長期に渡って『体罰』を受けた人は、受けていない人と比較して脳の前頭葉が萎縮する傾向がある」という内容を医学・脳科学の観点から解明しています。(参考:NHKニュース2008年10月22日配信、『朝日新聞』web版2008年10月24日配信)

これらのことを総合すると、「体罰」を受けて感謝する・目が覚めるとか、教育的効果があるというのは、一方的で独善的な思いこみや幻想だと判断する方が妥当です。

むしろ「体罰」では、暴力で物事を解決できるかのような誤った観念や、いじめの手口など、反教育的な内容を大人の側が自ら示すことになり、「体罰」は教育とは相反する行為になるといえます。

「体罰」とマスコミ報道について

「体罰」事件がマスコミで報道された際のお決まりの「体罰」擁護論として、「マスコミ報道は間違っている」かのように主張するという手口があります。

確かに、マスコミが誤報をおこなう可能性はあり得ます。しかし「体罰」事件を報じたマスコミを攻撃する論調は、どこがどのように間違っているかということを全く説明できない・自分たちの主張する事実関係も全く説明できない、単なる感情的な悪罵や逆恨みという論調に終始していることがほとんどです。

いわば、「体罰」事件の際の加害者のマスコミ非難は、「『報道は自分たちにとって気に入らない内容だから、事実ではない』と独善的なすり替えをおこなっている」とみて差し支えないでしょう。当たり前のことですが、「事実かどうか」と「個人的にどう思うか」は、全く別のものです。

ついでに、「体罰」事件に関するマスコミ報道について一言申し添えておきます。実際の「体罰」事件(「体罰」に限らず、いじめや「学校側の人為的ミスの疑いが極めて濃い学校事故」などについても同じことが言えますが)では、実際の事実関係は「報じられた内容以上に、加害者が悪質な行為をおこなっている」という場合が大半です。生々しすぎて記事にしにくいからか、結果的にむしろ加害者側に甘い報道になってしまっているという例の方がよほど多いといえます。被害者側が報道内容の不十分さに不満を持つのならば話は分かります。

「体罰」事件の報道は、批評なしに「こんな事件があった」という内容だけを淡々と述べているだけに過ぎない場合が大半です。しかも独自調査をおこなってみると、「加害者がもっとひどい問題行為をおこなっていた」などの重要な事実関係が抜け落ちていたり、記事そのものが加害者側の視点に立っていたりする場合も多々あります。加害者側が報道に立腹するような理由は全く見当たりません。

また加害者側は、自分たちのしてきたことが「正しい」というのなら、報道されてもむしろ「自分たちの『正しい』教育実践を、こちらから頼んでもいないのに世間に紹介してくれた」と感謝してもおかしくありません。それならば報道に逆恨みする必然性はないはずですし、不都合なこともないはずです。

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