水戸五中事件

茨城県水戸市立第五中学校(水戸五中)で1976年、生徒に「体罰」を加えた女性教師が暴行罪に問われたが無罪判決が確定した事件。被害生徒は「体罰」から8日後に脳内出血で死亡したが、「体罰」と死亡との因果関係は解明できず、暴行罪のみが問われた。教師への無罪判決は、「体罰」正当化の論拠として使われるようになった。

事件概要

同校で1976年5月12日に体力測定がおこなわれ、各種目ごとに担当教員と補助担当の生徒数名の組で計測を担当することになった。この際、K教諭(当時40歳)の場所に補助員としてつくことになった2年男子生徒・Aくんが「何だ、Kと一緒か」と発言したとされる。この発言が耳に入ったKは「自分が呼び捨てにされた」として激高し(ただしK教諭は「指導の一環」と主張した)、Aくんの頭を十数回殴りつけた。

Aくんは事件後体調を崩し、8日後の1976年5月20日夕方に脳内出血で死亡した。死亡時、Aくんの左側頭部には内出血が認められた。遺族はAくんの死亡時、Kによる「体罰」があったことを知らなかった。学校側はAくん死亡の際、「火葬か、土葬か」と不審な質問を遺族にしたという。遺族が「体罰」の事実を知ったのは、Aくんが火葬された後だった。

刑事事件としての経過

事件を茨城県警水戸署が捜査したが、「体罰」と死亡との因果関係は解明できなかった。そのため、死亡との因果関係については保留したまま、Aくんに暴行を加えたことのみを問いKを立件した。Kには暴行罪で罰金の略式命令が下った。

しかしKは略式命令を不服として正式裁判を求めた。Kの弁護側は、「軽く頭をたたいただけ。Aくんの注意を促すためのスキンシップだった。よって暴行罪は成立しない」と主張した。

一審水戸簡裁は1980年1月16日、目撃していた同級生の証言などからKの暴行を認定した上で「私憤によるもの」と断じ、罰金3万円の有罪判決を下した。しかしKは控訴した。

二審東京高裁は1981年4月1日、一審判決を破棄し、Kに逆転無罪の判決を下した。判決では「より強度の力を行使することは教育上効果がある」「Kの行為は比較的軽微なもの」「死亡との因果関係も認められない」などとした。その後東京高裁判決が確定した。

民事訴訟

Aくんの遺族は、Kに対して民法上の不法行為、水戸市に対しては国家賠償法をそれぞれ根拠として、総額約4930万円の損害賠償を求める訴訟を水戸地裁に提訴した。KはAくんの死亡について「当時流行した風疹の影響」などと反論し、全面的に争った。

水戸地裁は1982年12月15日、遺族の請求を棄却した。

教諭、事件批判者を「名誉毀損」と訴える

Kは刑事事件で無罪となったことを受けて、死亡した生徒を殴ったことも含めて自分の行為はすべて正当だったと主張した。またKは、事件を批判する見解を書籍などで公表した人に対して、「名誉毀損」として次々と提訴した。

作家・竹原素子氏が事件を批判する見解を発表したことに対して、Kは「自分への名誉毀損」として竹原氏を刑事告訴した。竹原氏は1984年3月に不起訴となった。Kは、竹原氏に対して民事でも「名誉毀損」として慰謝料と謝罪広告を求める訴訟を提訴したが、水戸地裁は1989年10月27日、Kの訴えを棄却した。

また、同じく事件に批判的な見解を発表した、「体罰」問題に詳しい研究者・今橋盛勝氏(当時・茨城大学教授)の論文についても、Kは「名誉毀損」として、今橋氏を相手取って慰謝料と謝罪広告などを求める民事訴訟を提訴した。一審水戸地裁および二審東京高裁(1990年3月27日)とも、今橋氏の論文を「1981年の東京高裁判決の内容および学校の対応への批判にすぎず、K個人への名誉毀損は成立しない」として、Kの訴えを棄却した。

事件の影響

水戸五中事件の刑事裁判での東京高裁判決(1981年4月1日)は「教師が生徒を軽くたたくことは許される。軽くたたくのは教育上の正当行為で『体罰』ではない」と一般に理解されているものである。ただし、「この事件の行為についてのみ『体罰』ではなかったと認定しただけに過ぎず、『体罰』一般を肯定しているものではない」という別の解釈もある。

この判決は、「体罰」・対生徒暴力を肯定する主張をおこなう者から、自らの立場を正当化する法的根拠としてしばしば引用される判例となった。

しかしその一方で、当時から教育学者の間では判決に大きな疑問が持たれていることや、また後年にはこの判決を事実上否定するような「体罰」訴訟の判決も出ている(1996年9月17日東京地裁判決・東京都東久留米市立中央中学校「体罰」訴訟など)ことも事実である。


「体罰」に関する主な事例

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