教育再生会議、「体罰」の定義見直し要求

 政府の教育再生会議は、「体罰」の定義の見直しを要求する方向性を固めたということです。

 確かに、教師の感情的な暴力やいじめ行為を「教育的指導に基づく行為」と強弁する例も多くあります。また教師による感情的な暴力事件について、「体罰」事件として扱われるケースも多くあります。教育的指導かのようにとれる「体罰」という表現が暴力の本質を曖昧にし、暴力正当化の隠れ蓑となっているという側面はあるでしょう。
 暴力を「指導」と言い訳できないようにさせること、また暴力を正当化する教師・一部の保護者・地域住民の誤った考えを徹底的に排除するという観点から、《「体罰」は「対児童・対生徒暴力」と同じ意味と定義づける》方向性での見直しならば、今すぐにでもすべきです。
 しかし教育再生会議の求める「体罰」定義見直しは、全く正反対の方向性からの見直しで、「体罰」正当化につながる反時代的なものです。
 例えば、教育再生会議の席上で義家弘介委員が「現状では教師は毅然(きぜん)とした指導ができない。両手両足を縛って『戦ってください』と言うのは無責任だ」(読売新聞2006/1/18)と発言しているということです。毅然とした指導=「体罰」・暴力だという認識のもとでの見直し提案と読みとれます。
 「両手両足を縛っている」どころか、絶対的な権力者と大きな勘違いをした一部の教師が、暴力や児童・生徒いじめなど人権侵害をやりたい放題になっていることが最大の問題です。どこか「両手両足を縛っている」のでしょうか。両手両足を縛られているのは教師ではなく、児童・生徒や保護者です。
 暴力や暴言などの人権侵害を繰り返すような教師のもとで、暴力や人権侵害は正当だと子どもが学習してしまうから、いじめや校内暴力などの問題が発生するのです。そのことを棚に上げて暴力や人権侵害で指導することを今まで以上に正当化させようとすることは、状況をさらに悪化させるだけです。

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