東日本大震災で殉職した町職員が道徳教材に:取り上げられ方に違和感

 東日本大震災の際、町役場から防災無線で町民に津波からの避難を呼びかけ続け、庁舎ごと津波にのまれて死亡した宮城県南三陸町の女性職員のエピソードが、埼玉県の道徳教材として使用されることになったという。

 南三陸町では役場の屋上まで津波が到達し、庁舎は骨組みだけになった。たまたま骨組みに引っかかって助かった職員もいたが、大半の職員が流されて犠牲になったという。

 東日本大震災では、この職員の話だけでなく、いろいろなエピソードが伝えられている。今後起こるであろう災害に備え、各地のエピソードを収集して分析し、被害を最小限にとどめるためにはどうすればいいのかという点を検討するという観点は必要であろう。機械での自動放送にして逃げられなかったのだろうかなど、特定の個人の問題ではなくシステム上の問題として、防災の観点からは考えることも多い。

 しかしそういう観点ではなく、人の死だけを強調して道徳教育として取り上げることで、自己犠牲を強要する方向にゆがめられないかという点にすごく違和感を感じる。これでは亡くなった方にも失礼ではないか。

 戦前の修身教科書では、日露戦争で戦死したラッパ兵・木口小平を取り上げて「死んでもラッパを離しませんでした」と賞賛することで、戦争を遂行するためには命を捨てることもいとわないような人材育成に一役買った。それと同じにおいを感じる。

 自己犠牲を強要することは、困難なことや理不尽なことは黙って受け入れよというのと一体である。自己責任論の強要も、自己犠牲の強要とほぼ同義であろう。それで得をするのは誰かといえば、社会の中で困難や理不尽を作り出す元凶となり、自らは自己犠牲をする気もないし責任を取る気もないのに、他人に自己犠牲・自己責任を強要することで自らが起こした問題の尻ぬぐいをさせ、自分は安全なところにいておいしいところ取りをしている側である。

 津波で犠牲になった職員個人には全く非はないのは当然だが、そのエピソードをゆがめて利用することはあってはならない。

スポンサードリンク