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おかやま山陽高校野球部「全裸ランニング」事件の初公判

 岡山県浅口市の私立おかやま山陽高校の野球部で2005年、部員に対して全裸でのランニングを強要したり、部員の顔を殴るなどの暴行を加えたとして起訴された、当時の監督・池村英樹被告(35)に対する初公判が5月23日、岡山地裁倉敷支部で開かれました。

 池村元監督は「全裸ランニングは部員の気分を高揚させ、一体感を醸成する目的だった。従わないと暴力を加えかねないと部員を畏怖させた事実はない」などとして全裸ランニングを強要したことを否認し、また暴力についても「指導に必要な範囲」として一部否認したということです。
 池村の態度については、自分のしたことについて無反省だと理解できます。むしろ「自分のしたことは教育的行為」だという誤った確信を持っているのではないかと解釈できる、悪質な態度です。
 同時に池村の態度――暴力・「体罰」や人権侵害などをおこなってもそれを正当化して「指導」と強弁するという思考――は、この人物特有の態度ではなく、「体罰」肯定の典型的な論理であると感じました。
 立件された事件のほかにも、池村は日常的に部員に対して暴力・「体罰」を加え、部員を畏怖させていたということです。池村は暴力について「愛のムチとしてやった」「指導に必要な範囲」と居直っていますが、本来の教育的指導ならばそもそも暴力を使う必然性はどこにもありません。単に自分よりも弱い立場にあるものに暴力をふるって従わせることで、指導者の自己満足を得るという「効果」しかないものです。こういった行為は反教育的行為です。
 そもそも暴力や「体罰」・虐待などについては、教育的効果は全くなく、逆に教育や子どもの発達に悪影響を与えるものであることは、多くの事例で証明されています。暴力について「愛のムチ」や「指導」とする言い分は、暴力を自己正当化するための口実に過ぎません。
 また、暴力については「指導者の指導権」に属するものでも何でもありません。「教育権・指導権にケチをつける者がいて、その勢力に不当に陥れられた」とでも言いたげな、暴力の正当化は決して許されません。
 また全裸ランニングについての池村の言い分についても、生徒の心情など考えていない、全く自己中心的なものだといわなければなりません。池村は全裸ランニングについて「部員の気分を高揚させ、一体感を醸成する目的だった」とか「メンタル・トレーニング」とか主張していますが、本当にそうだったとするのならば暴力的な行為・人権侵害行為でおこなう必要性も必然性もないことです。暴力で部員を支配する一環としておこなったとみるのが妥当です。
 40数人の被害部員中、苦痛を訴えている部員は十数人だというずれについてどう見るのか。暴力での支配が日常化している元では、暴力や「体罰」・人権侵害を指導と錯覚し、異常な体質を再生産し、生徒自身も「暴力での『指導』は当然」という異常な態度を身につけてしまうことも考えられます。
 またスポーツ指導者の一部には、「競技で優秀な成績をおさめれば、人間的にも特別で、何をしてもよい」とばかりに、暴力や不正行為などにも鈍感になるという傾向もあるようです。また「競技に強くなるためには暴力も必要」と、科学的には全く根拠のないでたらめを信じ込む傾向もあるようです。
 暴力に対する鈍感さ・人権感覚の欠如・指導者のおごりと指導力不足など、いろいろな要因が組み合わさって、部活動やスポーツ指導中の暴力・人権侵害事件は発生します。今回の「全裸ランニング」事件にしても、そういった誤った傾向が最悪の形で現れた一つだといえます。
 池村については、当然のことながら厳しい判決が求められます。
 同時に、この事件を「特殊な事件」として扱うのではなく、「全国的にも同様の問題が起こりうる」ととらえ直さなければならないでしょう。子どもへの暴力や人権侵害は絶対に許されない行為であり、もしそういうことを犯したものは社会的に厳しく処分されるべきものである、そういった世論を広げ、学校やスポーツ指導者などの暴力・「体罰」など、子どもへの暴力や人権侵害を絶対に許さない雰囲気を作っていかなければなりません。