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「授業分からないうっぷんはらす」と学校の窓ガラス割る:大阪の中学校

 何ともやりきれない事件が、大阪の中学校で発生したということです。

 大阪市住吉区内の市立中学校で、「授業が分からないうっぷんを晴らす」という理由で校舎のガラスを割った生徒らが逮捕・補導されたということです。
 『産経新聞』5月22日付の記事によると、概要は以下の通りだということです。なお当ブログへの転載にあたり、固有名詞を一部伏せ字に変更しました。

「授業わからん」中学の窓22枚割る 3女子生徒を逮捕・補導 住吉区
 二十二日午前四時四十五分ごろ、大阪市住吉区○○の市立○○中学校で、「ガラスの割れる音がする」と住民から一一〇番通報があった。駆け付けた住吉署員が、現場から逃走しようとした少女三人を器物損壊などの容疑の現行犯で逮捕・補導した。
 逮捕されたのは同中学校に通う二年生の女子生徒(14)で、補導された二人は同級生の女子生徒(13)。
 調べでは、女子生徒らは裏門から侵入し、校舎一階の図書室やトイレなどの窓ガラス二十二枚を石などで割った疑い。女子中学生らは「授業についていけない鬱憤(うっぷん)を晴らしたかった」と話しているという。
(産経新聞) – 5月22日15時57分更新

 ガラスを割るという行為については、肯定するわけにはいきません。
 ただ、ガラスを割った動機には、ある意味では現在の教育問題のゆがみが濃縮していると感じました。法律上の手続きはともかく、教育的な視点からは「一個人がガラスを割ったという現象とその動機」だけにスポットを当てるだけではなく、個別の視点と並行して現代の教育病理の一つの表れとしてマクロな視野でとらえることも必要になってくるでしょう。
 動機について生徒らの言い分が事実=授業が分からないうっぷんを晴らすためにガラスを割ったという前提で検討すると、決してこの生徒が特殊な事情の持ち主だったとは考えられません。
 「3割の子が分かればいい」という前提で作られている学習指導要領、またそれに基づく教育課程の結果、系統性を欠いた上に過密なカリキュラムになっていることを忘れてはいけないでしょう。その結果、授業についていけない児童・生徒の存在も決して珍しいものではなくなってしまっています。
 全く分からない授業を連日朝から夕方までじっと聞かされる・もはや「どこが分からないのかということすら分からない」状況にもなっている・他の生徒のこともあるのでなかなか分かるまで教えてもらえる機会もない…こういう状況に置かれることを想像するだけでもぞっとします。授業についていけないことが、児童・生徒にとって強いストレスになる一因となっていることは容易に想像できます。
 学校内外でのほかのストレス要因(学校でのクラスメートや教師との人間関係、生活習慣…)などとも絡まって、子どもをめぐっての望ましくない問題が吹き出るのは、必然的な帰結だと考えられます。
 たまたま今回の事件では校舎のガラスを割るという形で現れましたが、いじめ・非行や不登校・精神疾患・心身症などほかの形をとって子どもたちのストレスが噴出することもありえるでしょう。
 さて、こういう事件が発生すると、個人だけにすべての非をなすりつけようとする意見が出ることもあります。具体的には、「こういうことをする子どもが問題なのであり、そういう子どもを作った親が悪い」などという形で、声高に主張されます。そういう主張の持ち主は時として「クソガキ」「馬鹿親」などと下品・乱暴な表現も使いながら主張することもあるようです。
 しかしそういう主張は概して、今までの教育や社会のゆがみを作ってきた側・教育や社会がゆがんでいた方が好都合な側が、自分たちの責任を逃れるために、ゆがみの犠牲者・被害者を「悪の根源」かのように正反対にすり替えて、個人に非をすべてなすりつけようという傾向があるように感じます。
 そういう主張が横行することは、生徒の置かれている苦しみを解決することにはつながりません。全く正反対に、さらに生徒を苦しめ、また教育や社会をさらにゆがめ、さらに好ましくない問題を広げるという悪循環にしかならないでしょう。
 「勉強が分からない」なる意見に対しては、「勉強しないのが悪い」だの「昔はもっと勉強内容は難しかった」だのということを声高に言い立てた「反論」があります。しかしそれは見当はずれもはなはだしいものです。
 授業に全くついていけず、もはや「どこでつまずいているのかということすら自分でも分からなくなっている」という状況では、勉強しろといってもどこから手を付けていいのかすら分からないというのが現状でしょう。また興味も持てなくなっていることでしょう。生徒の学力状況を分析し的確なアドバイスや基礎に立ち返っての丁寧な学習援助ができる援助者の存在なしにただ「勉強しろ」とだけわめき立てても、全くの無意味です。
 「昔はもっと勉強内容は難しかった」などという意見に関しては、比較すること自体が無意味です。問題は「今、その子が直面している問題」であり、「昔の教育内容」など全く関係ありません。そんな論理は病院にたとえると「体調不良を訴えて受診した患者に対して、医師がまともに患者を診ずに、『私は以前にこんな難病の人を診たことがある』と延々と語り始めるとか、『私の担当している別の患者は危篤状態』とか話し出す」のと同じようなことです。そんな訳のわからない医師は現実世界ではまず考えられませんが、学校教育の文脈ではこういう「子どもの置かれている現状から目を背けて、無意味なすり替えをおこなって放置する」ことがまかり通るのは、不思議なことです。また、以前より学習内容が易しくなったという根拠もありません。授業時間数の削減などの要因を考慮すると、全体としてはむしろ授業の密度が過剰になり、授業についていけない生徒を生みやすい構造になったともいえます。
 話を元に戻すと、「授業についていけない」というのは必ずしも個人的な資質だけが原因なのではありません。現在の学校教育制度の中では、「授業についていけない生徒」は構造的に作られているものだといっても過言ではないでしょう。
 学習面でつまずいている生徒個人に対して個別に丁寧な援助をしていく体制、そして社会構造として「すべての子どもが分かる授業・教育課程」へと転換していく体制の両方の視野が求められます。