教育勅語、配慮があれば教材として用いることは問題ない:文科相見解

 松野博一文部科学大臣は3月14日、教育勅語について、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば、教材として用いることは問題としないとする見解を示した。

 配慮が適切かどうかは、文科省ではなく都道府県など所轄庁が判断するものとした。

 歴史の授業で当時の人々の考え方や社会状況・思想的背景を知るための史料としての見地から適切に扱われるなどのケースを想定している限りなら、一見もっともにも見える。

 その一方で、教育勅語の内容を肯定する論者が「教育勅語で示された徳目は、現在に通じる普遍的な道徳だ」と主張して、教育現場にねじ込もうとする動きも生まれている。

 例えば産経新聞は2017年3月13日、「【阿比留瑠比の視線】教育勅語のどこが悪いというのか 毎日新聞よ、無知と偏見の他者攻撃はみっともない」とする記事を出している。

明治天皇が人が生きていく上で心掛けるべき徳目を簡潔に示した教育勅語が、メディアに「悪者」にされている。「教育勅語の精神は親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする&

 森友学園の問題に関連して、同学園が運営している塚本幼稚園(大阪市淀川区)では教育勅語を暗誦させているなどの復古主義的な教育も問題になった。教育勅語に基づく教育を批判した毎日新聞の記事に対し、産経新聞が攻撃の論調を加えたというものである。

 教育勅語で示されている徳目について「どこが悪いのかさっぱり理解できない」などと論難し、政府は教育勅語の内容について「今日でも通用する普遍的なものがある」ことに着目させることには問題がないと国会で答弁しているなどと主張している。

 産経新聞の上記の論など、その手の「教育勅語=普遍的な道徳が含まれる」論がよく見られるが、根本的に間違っている。教育勅語で徳目として並べられているものは、非常時には天皇のために命を投げ出すために備えよとしているものであり、さらに永遠の皇国を支えることが時代を超えた普遍的な道徳だとも主張しているものである。こういうのは個人の尊重にふさわしくないし、ひとりひとりの個人の集合体として成り立っている現代の国家観にもふさわしくない。

 そもそも道徳は、個人の内心で育まれるものである。また、多くの人にとって一定の共通の了解事項とされているような社会的な道徳規範についても、個人の道徳観の集合体であり、社会状況の変化や発展によって流動的に変わりうるものである。上から特定のものをすり込んだうえ、それを永久不変扱いするという、教育勅語の道徳観とは根本的に相容れないものでもある。

 だからこそ1948年に国会で、教育勅語の排除決議や失効確認決議があがり、歴史的な文書となっている。歴史研究の資料として歴史の文脈で扱うのならば話は別であるが、そういう意味とは全く異なる視点で普遍的な内容として扱うことなど、認められることではない。

 文科省の見解では、教育勅語を推進するような復古的な勢力が、巧妙な手口で教育勅語を肯定的に扱う危険性も捨てきれないのではないかと、不安になる。

(参考)
◎教育勅語巡り、松野文科相「教材、配慮あれば問題ない」(朝日新聞 2017/3/14)

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